Games of Consequence – Japanese Translation
ポリクセニ・パパぺトルー:結果のゲーム
少女は考えに耽っている。メルボルンのヤラ川の堤防に沿って、しっかりと目的意識を持った足取りでうす暗らがりから現れる。彼女は縄跳びの一方の結び目を握っていて、もう一方の結び目は中空に浮かんだまま背後に流れている。ユーカリの木は、濁り水の深い黒みに映り遠くにきらめいている。膝までのソックス、プリーツのスカート、流行遅れの白いスニーカー、うつむいた彼女のまなざし。おそらく夕暮れ、川の淵へと危険な歩み、不吉な予兆が漂うイメージ。何をそんなに思い耽っているのだろう。ポリクセニ・パパペトルーの「夢は水のごとく」、写真の中の我が娘オリンピアは、見るものを不可思議でうっとりする子供時代の世界に誘う。
写真家として又母としての用心深いまなざしとともに、我が娘であるこの被写体に持っている知識は、共謀と信頼の入り交じった感覚をそれぞれのイメージに漂わせる。一瞥又は仕草で、子供の大いなる領域とそれに関連した喪失、無垢、無防備が喚起される。「結果のゲーム」のシリーズは、溢れ出る感情の強度とともに、緊迫した心理的切り口によって、物語の為の物語になることを免れている。映画的発想で彼女の演出画/写真には、子供達がオーストラリアの風景のまっただ中に映し出される。パパペトルーの静止した情景は、イマジネーション、白昼夢、解き放たれた感情といった内的世界に耽る、牧歌的であるが不安でもある子供の遊びの情景である。
パパペトルーの潔癖な程に詳細な舞台装置によって、風景と肖像は難なく融合している。彼女のそういった装置の操作は、若さ故の不安定な状態を保持するカメラの力ともなっている。コスチューム、仕掛け、そして注意深く選び出された場面によって、こういったシナリオの高度に様式化された感受性は力を得て、美は忘れ難く高まっている。パパペトルーは、デジタルな操作なしで彼女の鮮烈な色使いを高める為に自然光を使っている。慣れ親しんだ都市環境を離れて、パパペトルーの子供たちは、親しんではいるが忘れられた過去へと我々を誘う役目を演じきっている。そうすることでパパペトルーは、彼女がいう「子供時代の、恐怖と危険が天使的なものと混ざり合っている驚く程異質な様相」を引き出している。
舞台装置として子供時代の遊戯の小道具が登場する。縄跳び、フラフープ、そして目隠しは、遊戯にまつわる競争、失望、屈辱そして愚弄といったことばにアクセントを与えている。「滝」に見る囁やける秘密にも、「ダイツの滝」の危険な渓谷の前でロープをたぐり寄せる事にも、悪意と脅威の感覚が基調にある。さらに慎重で謎めいている写真もある。「どこからでもない距離」では、主人公はロリータのようにバナナカウチに横たわる。彼女のピンク色の格子模様のドレスはどぎつい赤い爪と相殺されている。思春期のまっただ中でパパペトルーの娘は、近くにある飛行機のライトに照らされながら乾燥した野原にくつろぎ、疑い深くもお見通しの眼差しでカメラを見つめている。
パパペトルーは、二人の兄弟と共に育ったポート・メルボルンの彼女自身の子供時代を回想している。ヴィクトリア州のエイルドン湖へそしてニューサウスウエールズ州の田舎に「日曜日のドライブに行く」、そこで妹と乳母車の幼い弟と共に自由に徘徊したことの記憶を彼女は味わい深く回想する。いまでは、いろいろな場所や観光地に彼女自身の幼い家族を引き連れて旅する。これは家族の事件である。「野生の世界」のマンゴー(Mungo) 湖の乾燥したうねった大地、「レイブンズウッド (Ravenswood)」の森林の地、ストーウェルの「シスターズロック」のおびただしい落書きといった風景が背景となる。
パパペトルーは、スタジオの管理された環境を越えて、写真監督と外光に舞台を設定する手の込み入った仕事をしている。コステュームは彼女自身のワードローブと古美術店からのものである。「母は、ギリシアからの移民者の多くがそうであったように、ちゃんとした服装に極度に口うるさく誇りを持っていた。母は、私の手元に在る写真から判断すると、手の込んだ服を妹と私に作った。実際そこでは私達は人形と大人の交差点にいるように見える。」俳優と撮影隊と同様、子供たちは母の心のドラマ作りに興じている。完全な明晰さに結実する念入りな調査と計画は、パパペトルーの用心深い母性的な眼と軌を一にしている。
歴史的には、オーストラリアの風景写真の始まりは質素であった。多くは個人のそして家族のアルバム用として、ブッシュは、裕福な入植者の郊外の所有地の写真の背景として最初に現れた。1870年代の絵画的美的様相を取り入れ、写真家達はオーストラリア大陸とその花の独自の特徴を定着しようと試みた。科学的発達(特に地質学的時間に対する興味とダーウィンの進化論)に刺激されて、岩や巨大な木は主題としてもてはやされた。パパペトルーは、込み入った感情の響きを伴って、絵画美の伝統を回帰させている。彼女は言う、「風景は隠喩の棲家、つまり子供達が自身を発見することを可能にする不可解で想像力が花開く場所として描かれている」。
時にパパペトルーの登場人物は内省的で思索的である。「スカウト・ホールの花嫁」ではオリンピアはそり目がちに、幽霊を思わせる白いシーツに包まれている。埋葬布あるいは即興のウエディング・ドレスの様な彼女のコステュームは、あこがれと切望を喚起する。パパペトルーは、12歳の頃近所の男の子と結婚ごっこをした記憶を、同じ優しさと距離と倦怠感で再演出してきた。さらには彼女の構成したイメージは、写真の最初期の日々、特にジュリア・マーガレット・キャメロンの幻想的なヴィクトリア時代の子供時代の描写を思わせる。最近では演出写真は益々、メディアを介した現実に対する辛辣な注釈になってきている。パパペトルーは、傷心と屈辱から愛情と嫉妬へと、膨大な感情の全域を表現する遊戯にもう一つひねりを加える。幻惑的な物語に我を忘れて、パパペトルーの演出の織物に登場する子供達は、お話であれば付いてくる避け難い運命である「結末」を持たず、物語なしで彷徨っている。
ナタリー・キング キューレータ・作家・放送番組制作者 メルボルン在住。
1993年以降パパペトルーは子供についての仕事をしてきている。彼女はアラスデアー・フォスターとの対談(Polixeni Papapetrou interviewed by Alasdair Foster, Photofile, No. 82, Summer 2008, p.21)で言っている。「子供の写真は私にとってひつとのマジックである。というのは、子供を目にした時、我々の知らないものがある、つまり彼らの未来はミステリーだからです。」
Zoom, # , 2008, forthcoming.
Ibid.
Helen Ennis, Land and Landscape, Photography and Australia, Reaktion Books, London, 2007, pp. 51-72.
作家との対話(2007)による。